『三十三間堂通し矢物語』
『三十三間堂通し矢物語』
『三十三間堂通し矢物語』
2013年2月22日金曜日
以前から見よう見ようと思っていて、なかなか試聴する機会がなかったが、近隣の図書館にVHSがあり先日ようやっと見ることができた。
ここから大八と星野勘左衛門のしばしの友情がはじまる。勘左衛門は芝矢前の稽古に付き添うが、ここで大八の腕前を見て新記録の達成されることを悟る。大八は父親の自害のきっかけとなった星野がいかに憎い存在であるか延々と語るが、勘左衛門は「お父上は勝負に破れたから死んだのではない。通し矢の厳しさに殉じたのだ」と滔々と説く。二人の交流と人間性は、弱々しい青年大八と円熟した勘兵衛という対比でわかりやすく描写されている。旅籠屋の庭で大八が巻藁練習をするシーンがあるが、ここで大八を演じる市川扇升は上手に弓を引いて見せている。矢を口割で留めて十文字に離れるという近代的な射法だがそれなりに練習を重ねたものと思われる。映画のエンドロールが充実していない時代のことであり詳細は分からないが、某かが技術指導が行ったものと思われる。
この日、貞享3年(1686年)4月27日暮六つ、大八の一昼夜の大矢数が始まる。堂射はここから24時間延々と矢をかけ続ける。春先におこなうのは温暖な気候を好み、弓の調子を狂わせる梅雨の湿気を回避するためである。翌28日朝には順調に5000本に到達した大八は、介添えの甚平衛の勧めもあり、すこし休憩を取ることにした。しかし立会人席からから立ち上がって声高に継続を要求した者がいた。星野勘左衛門であった。「いま休んではならぬ、続けるべきだ」と。観衆は、大八を疲れさせ自らの記録を保守しようとする勘左衛門の甘言だと野次を飛ばし、大八もまた一瞥をくれない。ところが、休憩が明けて再び堂射をはじめた大八の矢は全く通らなくなる。弓手の肩が固く凝り固まってしまったのだ。
事態を重く見た勘左衛門は逗留していた旅籠屋に戻りお絹を呼びつける。薬籠を差し出し、大八の肩を短刀で裂き傷口にこれを塗り込むよう託す。そこにお絹の迷いが見える。あるいはこれは大八を貶めるための毒かもしれない。しかし星野はみずからが大八の宿敵であると知ってなお身分をいつわり大八を輔けていたではないか。ここでは視聴者もまた不安になり、お絹に感情移入する場面である。お絹はしばし沈黙した。星野が侠客を追い払い、大八の弓の稽古に付き添った姿を思ったのかもしれない。何も言わず薬籠を手に取り走り出す。
お絹が三十三間堂に着くと、大八は控えの陣に下がり今まさに腹を切らんとしていた。お絹は言いつけ通りに大八の肩を切り軟膏を塗る。不思議と大八の肩は軽くなり、通し矢を再開すればあれよあれよという間に矢は8000筋を越え、ついには8133本を射通した。大八は新記録を助けた人物が星野勘左衛門であると知らぬまま歓喜する。お絹は星野を探して境内を走り回るが、見つからない。当の星野は堂内で自らが掲額した天下惣一の絵馬をじぃっと仰ぎ見ていた。
以上があらすじである。弟の星野和馬なる人物はおそらく創作であろうが、大八の通し矢物語に星野勘左衛門との邂逅は切っても切れない関係にあるようである。とかく弓を題材とした映画は少ないが、 この映画はDVD版がないため最近では容易に鑑賞できないということが残念である。長谷川一夫の名優であることは言う必要もないが、市川扇升は鼻がつまったような裏声でそれがさらに大八を一段と弱々しい人物とさせている。勘左衛門が18時間で8000本を通したという記録から分かるように、大八よりも射手として優れていてたと表現することも十分可能ではある。勘左衛門の天下惣一は三度、それぞれ6666筋、7077筋、8000筋という記録である。勘左衛門は切りの良い数字にこだわりがあったようである。 たとえば平田弘史の漫画『弓道士魂』では主人公は若き大八ではなく壮年の星野勘左衛門となっている。大八の8133筋という新記録が生まれるまでは18年の時間を要したから、むしろ勘左衛門の頃を物語の中心としたほうが通し矢競争の抜きつ抜かれつの雰囲気が醸成されるのだろう。この映画が大八の葛藤に焦点を当て、勘左衛門を同格の主人公として扱っている点はむしろ異色といってもいいかもしれない。
星野勘左衛門と和佐大八の邂逅の描写はしばしば見られる。現代弓道講座第三巻の岡井満の小論では、大八の大矢数の場に星野勘左衛門が現れたという記載がある。小刀で大八の弓手のうっ血を取り除いた勘左衛門の行為を美しいスポーツマンシップとして賞賛しているが、はたしてこれは本当にあったことなのだろうかと考えることが多い。勘左衛門の生没が1642〜1696年、大八が1663〜1713年である。新記録が達成された1686年に、二人はそれぞれ数え45歳と24歳である。二人の堂射日本一が父子ほど年が離れた同時代人であったというのはそれだけで物語の素材たるに十分なのだろう。くわえて尾州と紀州という天下惣一をかけて競った両藩の代表者であるという事実もここに華を添えている。二人の邂逅について、その他に資料が見つかればまた紹介したいと思う。