堂射の歴史
堂射の歴史
2013年1月4日金曜日
現代弓道講座第三巻には岡井満の堂射論考が掲載されている。岡井は石堂竹林派の祖、石堂竹林坊如成から数えて12代目にあたり、叔父は「東の本多、西の岡内」とうたわれた11代岡内木である。記録に残るうちでは最古の堂射の挑戦者、浅岡平兵衛もまた竹林坊の門人であった。およそ50頁ほどの小論のなかでは、星野勘左衛門の通し矢の記録が詳細に綴られている。
寛文2(1662)年6月6日、尾州の星野勘左衛門は6666本を射通して紀州の吉見台右衛門の6343筋を追い抜く。寛文8(1668)年5月3日には吉見の門人、葛西園右衛門がこれを7077筋で追い抜く。寛文9(1669)年5月2日には、ふたたび星野勘左衛門が登壇し8000筋を射通す。
星野は18時間のうちに10,242本の矢をかけた。およそ6.3秒に一本を引く計算だが、粥を食べ休憩する時間などを考慮するとそれ以上の速射であった。星野が24時間を待たず弓をおいたのは、自らの記録が破られず堂射が廃れることを懸念したためといわれる。しかし星野の8000筋はそれから15年以上に渡り未踏の数字となる。
そして貞享3(1686)年4月26日暮六つ(午後6時)、22歳の和佐大八は紀伊の天下惣一をかけて三十三間堂にのぼる。陽が落ちた頃に開始するのは、人間の身体が一時的に働きを鈍くする時間帯から翌朝の日中にピークを持ってくる工夫であったという。矢をかけ始め日が昇った翌27日朝、およそ4000筋を通した頃から和佐の矢は徐々に通らなくなる。みると大八の手の内は著しくうっ血していた。
当時、三十三間堂の周囲には出店が軒を連ね観客はゴザを敷き酒を飲みあるいは団子を食い一昼夜にわたり延々と続く弓を賑やかしていた。和佐の天下惣一が困難な見通しになったとき、観衆から一人の男が進みでた。星野勘左衛門である。星野は小刀で和佐の弓手を開いてうっ血を除き、これが奏して和佐は8133筋という未踏の記録を達成した。
岡井満は星野勘左衛門が24時間をすべて費やした場合、10,666筋の記録が生まれたという試算をしている。そのため星野勘左衛門が堂射の歴史上、もっとも傑出した射手であるということもできるだろう。寛政御免大成矢數年代記によると星野勘左衛門の通し矢の記録は以下の通りである。
・万治3(1660)年4月 7772本 5265筋
・寛文元(1661)年4月 5853本 3680筋
・同年5月 10017本 5508筋
・寛文2(1662)年4月 9554本 5851筋
・同年同月 10175本 6666筋(天下惣一)
・寛文9(1669)年5月 10242本 8000筋(天下惣一)
1668年に葛西園右衛門が7077筋を射通し、いよいよ人間の限界に近いところ来たかもしれない。翌1669年に星野の8000筋という飛び抜けた数字があらわれて以降記録は伸びなくなり、1686年の和佐大八の8133筋という金字塔が打ち立てられるまでには17年の間隙がある。しかしここで三十三間堂の通し矢の歴史が終わったわけではない。以後記録が更新されなかったのは、天和2(1682)年7月17日に天下惣一の掲額が禁止されたことにより、堂射が純粋に腕前を競うための方法へと落ち着いていったからである。藩の威信をかけて云々といっても、掲額は木の板に天下一の証明を彫り込んだものを安置するだけである。堂射の熱というものは、この板がすべての根本にあった。後年、星野は藩の財政や射手の一生をいたずらに徒食する通し矢を中止するよう申し出たといわれるが、いわんや最善の努力の末に生まれるものの虚しさを嘆じていたのかもしれない。
1682年の掲額禁止後の堂射がより純粋な競技性をもつようになり、かえって弓道家の間では堂射は普及したという。宝永4(1707)年4月21日には高松藩の米田新八郎知益が14249本のうち6233筋を通している。明和9(1772)年には太田松之助が13歳ながらも半堂射をおこない13046本のうち11700筋を達成している。この記録はすぐに安永3(1774)年の野呂定吉の11955本11715筋によって破られている。安永7(1778)年に12437本11730筋を通して記録を更新した鈴木悌蔵も弱冠13歳であった。さらに若い11歳の小田金吾は文化7(1810)年4月18日に11910本11760筋を射通している。少年らによってこうして記録が更新されていったのは掲額禁止後も堂射の研究が途絶せず、射術・弓具の発展があったことを示している。
半堂射が盛んに行われるようになったのは、堂射を一昼夜おこなうのに必要な金額を捻出するのが困難となりつつあったためである。寛政期を最後に大矢数はおこなわれなくなり、堂射は総射数1000本以下の日矢数が主流となっていった。嘉永5(1852年)年には三十三間堂の西側の芝生に芝矢場がつくられ、18メートル×8メートルの平屋が建てられている。三等分された屋内には四畳半と六畳の二部屋と土間・炊事場・厠・庭が配備され、土間から芝生に置いた大的を狙える仕組みになっていた。現地に合宿所をもうけることで経済的な負担を軽減するためである。
芝矢前は蕪坂源太が堂射の下準備としておこなったという故事があるが、徐々に堂射をおこなうだけの資力がない者にとっては代替手段となり、堂射とは独立したものへと発展していった。